オグリキャップをもう一度

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東京の二千に咲いたムテキの舞い

本日4月11日はヤエノムテキの誕生日。
オグリキャップで本格的に競馬を知ることとなった自分にとって、同世代のヤエノムテキはまた思い出に残る馬の一頭でもあります。
また、今週末はヤエノムテキが勝った皐月賞も行われます。
ということで、今日はヤエノムテキについて書いてみます。

 

四白流星に輝くような金色の派手な馬体。闘志あふれる気性。そして、能力からも、ヤエノムテキは歴史に残るスターホースになる可能性があった馬でした。
ただ、ヤエノムテキの成績を見て「善戦マン」だの「脇役」だの言う人もいます。個人的にはヤエノムテキをこのように言うことに躊躇いしかありません。何しろ、時代が凄かったのですから。
ヤエノムテキが走ったのは、年号が昭和から平成へと変わる前後の数年。この数年は、日本競馬史上一番の盛り上がりを見せた時期でもありました。
その中心にいたのが、日本競馬史上最大のアイドルホースであるオグリキャップ
そこに、スーパークリークイナリワンタマモクロスサッカーボーイバンブーメモリーメジロアルダンなどなど実力馬がたくさん揃い、見応えのあるレースを繰り広げていました。
そして、間違いなくヤエノムテキもこの時代の主役の一頭でした。
その証明が、2度G1を勝った府中芝2000mでの走りだったと思います。

ヤエノムテキは、宮村牧場という小さな牧場で生まれました。
その小さな宮村牧場を支えていたのが、ヤエノムテキの祖母であるフジコウという繁殖牝馬。仔出しが良いうえに、堅実に走る馬を多く生むことで宮村牧場の功労馬となりました。そのため、宮村牧場の生産者宮村岩雄氏はフジコウの馬主である藤木幸太郎氏(「ハマのドン」藤木幸夫さんの父親)を恩人と慕い、藤木氏が亡くなってからもずっとフジコウの血統を大事にしてきたのです。
周りから「そんな血統は古い」と言われながら大事に守ってきたフジコウの血。フジコウの仔でありヤエノムテキの母となるツルミスターに、ツルミスターもヤエノムテキも手掛けることになる調教師荻野光男師のアドバイスヤマニンスキーをつけて生まれたのがヤエノムテキでした。
牧場では大柄なうえに牝馬の後ろを付け回したり他馬にちょっかいを出したりするなどかなりヤンチャであったため、一頭だけ離して育てられたヤエノムテキ。問題児ではありましたが、ヤンチャさを上手に競走能力へ転化できればむしろ強い馬になるのが競馬というもの。能力はかなりものがあると見られていました。特に荻野師はクラシックも狙えると考えていて、ヤエノムテキに期待を寄せていました。
ただ、気性難に加え、大型馬の若駒時にありがちな緩さもあり、デビューできたのが4歳(当時の馬齢表記。現在の馬齢表記でいう3歳)の2月。春のクラシックを狙うには絶望ともいえる時期でのスタートでした。
デビュー戦は7馬身差の圧勝。2戦目は何と12馬身差をつけての勝利。
やはりヤエノムテキは強い。自分の目に狂いはなかったと確信した荻野師は、距離適性からクラシックで一番向いているのは皐月賞と考え、クラシックの1冠目皐月賞を確実に出られるようにするため、連闘で毎日杯に出走する道を選びました。
その毎日杯で対戦したのが、オグリキャップ。結果的にヤエノムテキオグリキャップの4着に敗れます。
それでも抽選を通過し皐月賞に出走することが出来たヤエノムテキ皐月賞では直線抜け出し、見事にクラシック1冠目を制するのです。
ただ、毎日杯ヤエノムテキに土をつけたオグリキャップはクラシックへの事前登録がなく、当時の規定によりクラシックには出走することが出来ませんでした。そのため「この世代の真の王者はオグリキャップではないのか」や「オグリキャップがクラシックに出られれば」といった空気が生じてしまいました。これがこの世代のクラシック戦線における悲劇でもありますが、同時にドラマ性を持って語られることにもなります。

皐月賞を制したヤエノムテキのその後は、中距離を中心に活躍。途中調整ミス等で不振の時期もありましたが、掲示板を外したのはいずれもG1レースであったことを考えれば、皐月賞馬の名に恥じない走りをしていたと思います。
ただ、大一番には勝てない。オグリキャップが史上空前の競馬ブームを巻き起こし、スーパークリークがデビューしたての天才ジョッキー武豊を背にオグリキャップと鎬を削っていた中で、ヤエノムテキはその少し後ろにいてなかなかビッグタイトルを勝てないでいました。
6歳春となって主戦騎手を西浦から当時リーディングジョッキーだった岡部に替えたものの、安田記念は2着、宝塚記念は3着。やはりあと一歩のところで勝てないままでした。

夏を越して6歳秋。ヤエノムテキは初戦を天皇賞(秋)と定めました。
この天皇賞(秋)。当初岡部はヤエノムテキではなく、ヤエノムテキと同期のメジロアルダンに乗ると思われていました。
しかし、名手が選んだのはヤエノムテキ。それは「ヤエノムテキの方がより天皇賞(秋)を勝てる」と考えたからに他なりません。
そして、名手の選択は見事に実を結びます。ヤエノムテキは直線早めに抜け出し、メジロアルダンをアタマ差退けて2つ目のG1タイトルを手にするのです。
この天皇賞(秋)にはオグリキャップ(6着)も出走していました。いくらオグリキャップが調整不足であったにせよ、勝ったのは事実。ヤエノムテキが勝った皐月賞は、中山競馬場改修のため、天皇賞(秋)と同じ府中芝2000mで開催されたので、この勝利で「オグリキャップ皐月賞等クラシックに出ていたら」という声に対して「府中芝2000mならわからないよ」と切り返せることにもなりました。
ヤエノムテキは自分の走りでこの世代の主役の一頭であったことを証明したのです。
この2度の府中芝2000mでのG1勝利でついたキャッチコピーがJRAヒーロー列伝での「東京の二千に咲いたムテキの舞い」。
まさしくヤエノムテキは府中芝2000mなら無敵の馬でもありました。

ラストランとなった有馬記念では放馬し、オグリキャップの復活劇に花を添えてしまうかたちとなってしまいましたが、改めて思えばヤンチャなヤエノムテキらしい最後だったのかもしれません。
また、仔馬時代から牝馬の後ろをついて回っていたヤエノムテキですが、同期の牝馬シヨノロマンに対しては見かけたら立ち止まってじっと見つめる片思いエピソードなんてものもありました。
同期のライバルの陰に隠れるなんて言われることもあるヤエノムテキですが、成績やエピソード等からも非常に魅力あふれる名馬なのです。
現役時からヤエノムテキを応援していた人としては、よりヤエノムテキが評価されるようになれば、と思います。